87歳だったそうです。
「シェーン」の敵役でオスカーにノミネートされ、「シティ・スリッカーズ」(91)で助演賞を受賞。
共演者でもあるビリー・クリスタルが司会を務めた授賞式では、片腕で腕立てをしてみせ(当時すでに70歳過ぎ)、まだまだ現役さとアピールしてたのがなんだか可愛かった。
『ジャ〜ック、カンバ〜ック!!!』

さていつもコメントをくれるTKATさんのTK.blogの「浜村淳の映画紹介」が面白かった。
なんでも浜村淳がパーソナリティのラジオのその番組で、あの独特の「浜村節」で映画の紹介を延々とする究極のネタバレ(?)映画紹介らしいです。
多分、どんな映画も新喜劇のように聞こえてしまうんじゃないでしょうか。
ぼくの職場には関西の人間が結構いるので関西弁には耳は慣れてはいる。
関西の人って、東京に出てきてキレイに標準語を話すようになる人と、何年経っても関西弁のイントネーションが抜けない人に別れます。
浜村淳って人は多分後者のタイプなんでしょね。
アクセントの付け方がまるまる関西弁で、話してる言葉(音)だけが標準語。
だから関西の人にも独特に聞こえて余計に耳に残る、というか残ってしまう。
関西弁でぼくの気に入ってる独特な言い方がひとつあります。
それは『自分』と言う言葉を2人称として使うこと。
たとえば2人で喫茶店に入った時なんかに相手(対等の相手もしくは年下の人間)に対して何をオーダーするかを聞く時、
「自分、何にする?」
というふうに言う。
これが複数でも同じで、「自分ら」という様に使う。
これを最初に聞いた時は不思議でならなかった。
「自分」て相手に言われて「自分(ぼく)」のことだとは一瞬わからなかった。
「自分」という1人称の言葉を2人称として使うってゆーのは標準語(関東弁)にはない。
で、これが相手との微妙な距離感を埋めるのに実に巧い言い方なんですよ。
標準語では2人称となると「君」「アナタ」「オマエ」くらいしかない。
ただ「君」や「アナタ」では他人行儀すぎて相手との距離が遠すぎる感じがする。
かといって「オマエ」や「誰々」というように直接名前を呼ぶのではあまりにも失礼すぎる。
となるとあとは「誰々さん(くん)」という風に名前を丁寧に呼ぶくらいしかない。
この「自分」=2人称の言い方ってのは、この「誰々さん」と「オマエ」もしくは呼び捨ての中間の、友人でも他人でもない微妙な距離の相手に対しての呼び方として非常に優れた言い方だと思うんですよ。
極端かもしれないけれど、こういう言い方を作り出すってことは関西の人間の方が、他者との言葉でのコミニュケーションという点に気を使っていたって事だと思うんです。
でもそれは関東の人間が決してコミニュケーションに気を使わないのではなくて、関東の人間(というか江戸っ子)はどう話しかければいいかが分らなかったんじゃないかと。
ベタベタしない関係を良しとする江戸っ子の対人関係の影響なんじゃないかな。
だから聞く人によっては標準語(関東弁)って、ぶっきら棒だったり、冷たく感じたりするんだろうって思ってたんです。
みなさんは、どー思います?
ところで、江戸っ子と言えば、この前書いた中野翠さんの「今夜も落語で眠りたい」を読み終えました。
面白かった!
落語にチョッと興味がある人とか、聞き始めたばっかりという人にはオススメの入門書ですね。
この本のタイトル通りに中野さんは就寝時に落語のCDやテープを聴きながら眠るとのこと。
実はぼくも長年同じことをやってて、学生時代から眠る時は落語(漫才だったことも)を聴いてます。
いまはもっぱら古今亭志ん朝と立川藤志郎(高田文夫)の落語を聴いて眠ってますけど、最近は人の話声がしてないと眠れないくらいです。
志ん朝さんの落語の良さはいろいろ。
噺が上手いのは勿論のこと、様子(ルックス)の良さとかもあるけれど、一番好きなのはその声音かもしれない。
他の噺家さんにはないんですよ。
艶があって、ピーンと張った音というか調子でね。
小林信彦さんが志ん朝さんのことを本当の江戸弁を話せる最後の人といったようなことを書いてたけど、そうなんだろうなあと思います。
志ん朝さんの落語は父親の古今亭志ん正と違って、残っているのはCDだけで映像として販売されてるものがないんです。
幸いにしてぼくはビデオ録画した噺(「寝床」、「愛宕山」、「大山詣り」、「酢豆腐」、「柳田格之進」)があって、それはもう宝物といっていい。
志ん朝さんの落語を聞いてると、人を笑わせるのは決してギャグとかではなくて何でもない言葉の言い方なのがよく分かる。
何でもないセリフが演者によってはこの上なく可笑しいセリフになる。
その辺は他の喜劇にも通じることだと思う。
中野さんが本の終わりの方で映画や本の世界にも落語的なモノ(落語のようなもの)を探していたような気がすると書かれていて、デイモン・ラニアンの短編を「ニューヨーク落語」と書いていたのに納得してしまった。
確かにラニアンの短編集に出てくる、まだ禁酒法時代のニューヨークを舞台にした小説の登場人物たちは、どことなく落語の世界の住人たちに似ている。
おせっかい焼きな奴だとか、強面だけど案外イイ奴とか、口は悪いが気のいい女といったキャラクターは落語でお馴染みなモノ。
そんなラニアンの『マダム・ラギンプ』という短編の映画化がフランク・キャプラの「ポケット一杯の幸福」(61)です。
キャプラが自ら監督した「一日だけの淑女」(33)のリメイクであり、キャプラの最後の監督作でもあります。

「ポケット一杯の幸福」のストーリーはこんな感じ。
禁酒法時代のニューヨーク。
リンゴ売りをしている老女アニー(ベティ・デイヴィス)には実は赤ん坊の時にスペインの学校に預けた1人娘(アン・マーグレット)がいて、手紙だけのやり取りを続けていた。
その娘がある日スペインの伯爵の息子と婚約をしてニューヨークにやってくるという。
手紙のやり取りで自分は社交界の貴婦人だという嘘を書いていたアニーは本当のことが解ったら娘の幸せはフイなってしまうと悩む。
それを街のギャングのデイブ(グレン・フォード)が一肌脱ぎ、1人娘がニューヨークにいる間、アニーを貴婦人に仕立て上げようと仲間を総出で大芝居をうつ。
「一日だけの淑女」は未見だけど、この「ポケット…」の方は元の短編にかなり肉付けをほどこした結果137分とかなりの長尺。
肝心の大芝居が始まるまでに時間がかかりすぎで、映画としてはかなりダレる。
当然の事ながらキャプラの他の傑作群とは比べるべくもないけど、共演者は楽しめる。
主人公デイブの子分にコロンボこと若かりし日のピーター・フォークが扮しとぼけた味をみせてくれるし、アニーの夫役にさせらる判事ことヘンリー・B・ブレイクを「駅馬車」(39)、「素晴らしき哉、人生」(46)の名脇役トーマス・ミッチェルが演じている。
そしてこの話に出てくるのはギャングや浮浪者や詐欺師まがいの人間たちなんだけど、なぜか憎めない人たちばかり。
まさに落語の世界の住人たちそのものですね。
※こんな記事も書いてたりして。
映画の中の落語
ブログ座通信4号「セルフ・リメイク映画」
↓ランキングも、どーかひとつ。


落語を聴きながら眠ってるんですか?!し、渋いわ5011さん。本格的な落語って謙遜しがちですが、初心者にもわかるような噺を一度ちゃんと聞くと面白さがわかるのかな。5011さんの初心者におススメの噺があれば是非教えてくださいませ。
「自分」って使うのは男性の方が多いのかもしれませんね、あとは子供か。
落語は映画と同じ娯楽ですから本格的も何もないです。
落語は高校生くらいから聞いてましたけど、ホントに好きになったのはテレビで志ん朝さんの「芝浜」を見てからです。
だから笑いがいっぱいある落語よりも「唐茄子屋政談」や「文七元結」といった人情噺をたっぷりと聞くほうがハマリやすいかもしれませんね。
是非、落語の世界に浸ってくださいよ。
ラニアンやウッドハウスに通じる世界だと中野翠さんも書かれてることだし。